筑後朝倉の不思議なお話し

カテゴリー:まちなみ
投稿日:2017.5.5

母がたの里が筑後地方の朝倉で、ここには不思議なお話がたくさんあり、勉強不足ですが最近見聞きしてきたお話を、その1。

小倉百人一首の一番目は 天智天皇の句ですが、それを詠まれたのがこの朝倉の地。いつもの自転車ライドの出発地点、筑後川山田堰の駐車場でその石碑を偶然見つけました。

なぜ、中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝倉の田植えの小屋にいて、何を見ていたのか?

『筑後川山田堰を支える岩盤をなす高台の「恵蘇(えそ)八幡宮」へ』

こちらは中大兄皇子が宇佐神宮より応仁天皇を祀られたもので、ここから川に突き出た丘陵を登りつめたところに古墳があり「斉明天皇御陵」とあります。円墳状の2基からなり、正式な発掘はされてないうえで5世紀頃の埴輪が出ています。

斉明天皇は、天智天皇(当時は中大兄皇子)・天武天皇の母。
「斉明天皇 陵墓」は現在奈良県にありますが、ここは御殯斂地とされ埋葬前に一時的に安置された場所とのこと。名前を知る斉明天皇が朝倉で亡くなられていたとは驚きです。

そして、恵蘇八幡宮の境内には当時、皮が着いたままの丸木で建てた簡素な「木の丸殿」があり、中大兄皇子はここで喪に服されたとのこと。

ここに出てくるのは歴史の教科書に出て来る有名な人たち。その中で福岡の人間として知らなかった日本を揺るがす非常事態が朝倉を中心に起こっていたようです。

山田堰の「水神社」には、中大兄皇子が母のために歌を詠まれた場所と言われる「月見石」が祀られていました。

『朝闇(ちょうあん)神社』(朝倉町大字須川字鐘突)

「朝倉(あさくら)」の地名は、あさくら とも読めるこの神社から始まるそう。この一帯は、斉明天皇が西暦661年5月9日、一時的に “都” を置かれた場所で、その子供 中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)兄弟や中臣鎌足を始めとした重臣、女官など大勢の都人が難波の港を出発した長旅のうえで、都を遷された場所とされてます。地名も「鐘突」とただ者ではありません 笑。

そんなことを想像しながら、泡沫の夢のような朝倉の山里で ずっと佇むのは楽しい。

『太宰府の観世音寺と関連する「長安寺廃寺跡」と「猿沢池」(朝倉町大字須川字鐘突)』

朝倉地名の語源とされる「朝闇神社」入り口には、この長安寺廃寺跡の碑と池がありました。

それは、奈良~平安時代の古代寺院跡で、何故かすごい昔の1933年 発掘調査で、「鴻臚館式瓦(8世紀)」という石村萬盛堂のお菓子にもある重要な瓦や礎石まですでに見つかっていたとのこと。これはただ事ではないようです。

続日本紀に、天智天皇が母 斉明天皇の冥福を祈って「観世音寺(大宰府)」と「筑紫尼寺」を創建したとあるのに現在「筑紫尼寺」は存在していない。そうなると、現在の「朝闇神社」付近が「筑紫尼寺」であり「長安寺」と思われるようです。

そのうえで最大のポイント。「筑紫尼寺」は斉明天皇が百済救援のため朝倉に造った都「朝倉橘広庭宮」跡に造られたのではないかといわれており、全ての重要なピースがこの丘とその麓の傾斜地に集中し、かつピースがはまりそうなのでした。しかし、何故か本格的調査はまだまだのようで、都の跡は未だ特定されてません。

そしてこの「猿沢池」は、以前は水深が深く、大きな釣鐘が沈んでいるとの伝説あり。鳥肌が立ちそうです 笑。

『皇居「朝倉橘広庭宮跡」(朝倉町大字須川)』

朝倉市には、661年5月9日 斉明天皇により造営された宮廷(皇居)「朝倉橘広庭宮」がかつて存在したと言われています。そこでは、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、大友皇子(後の弘文天皇)、額田王などの宮廷人、中臣鎌足・阿部氏・蘇我氏などの高官豪族も随行し、国の重要な拠点となっていたとのお話しです。

理解不足や未確定なことも多い中、現地の資料やいろんな方が書かれた内容の備忘録で恐縮ですが、興味のある方は朝倉へ。この地に立つと、畑の鷺が時代を越えたただならぬ雰囲気を教えてくれます。
ーーーー
〈朝鮮半島情勢と皇居 朝倉 遷都の理由〉
朝鮮半島は4世紀末から百済・高句麗・新羅の三国に分かれ、7世紀まで戦いが続く。660年7月、百済は新羅・唐の連合軍に滅ぼされ、10月 親交のあった日本へ使者を送り、日本に駐留していた王子の帰国と急援軍の派遣を要請をした。斉明天皇・中大兄皇子らは、それを受け救済軍を朝鮮半島に派遣することを目的に、皇居を筑紫に移すところから始まる。

〈朝倉までの行程〉
百済滅亡の翌年 661年1月6日、斉明天皇らは難波の港から海路筑紫に向かい、3月25日那大津(福岡市博多区)、磐瀬宮(福岡市南区三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に至る。

〈斉明天皇 御崩御と「木の丸殿跡」〉
661年5月9日、百済救援のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため滞在75日目の 7月24日 68歳で崩御。7日後の8月1日、皇太子 中大兄皇子は、母の御遺骸を筑後川を見下ろす御陵山に安置。その山腹(現在の恵蘇八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱で板を敷きのあばらなる屋で12日間喪に服されたことで、この地が「木の丸殿」と呼ばれるようになった。
この時、皇子が詠まれたのが、「朝倉や木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」。筑後川のほとりの名月の下で心の痛みを詠まれ、その名残が筑後川山田堰に立つ、川神社の「月見の石」と言われる。

〈白村江の戦〉
当然、百済からは有力者や知識階級などの亡命者が北部九州に上陸していたはずで、そんな流れの中、662年より白村江の戦に向かう。

簡単には勝てそうにない大陸からの情報も入ったでしょうが、朝倉を起点に兵を送った白村江の戦い。ということは、朝廷と相当な結びつきが朝鮮との間にあったんでしょうね。

朝倉皇居は派遣軍の中心となる。筑後川対岸の生葉・竹野地区は軍事基地となり、大勢の兵馬が駐屯し武器・軍船が造られる。軍船は朝倉地方の楠をくりぬいた丸木船で、20~30人と馬2頭は乗れるもので、大量の木を伐採し造られた。それが地元民との摩擦を生んだ模様。

総勢3万人の軍は船で百済へ向かうが、燃えやすい構造の船のため400艚燃やされ大敗し、全軍朝鮮から撤退。この時、大勢の百済人が九州に亡命。

太宰府は、新羅・唐の連合軍襲来を恐れて、筑紫の民に水城の増強をおこなわせる。665年 天智天皇は百済の帰化人に命じて大野城など築かせ、百済の400人を近江に送る。667年天智天皇は都を朝倉橘広庭から近江の大津に遷都。

〈八女出身の大伴部博麻〉
百済の敗戦で捕虜になる。唐の日本侵攻計画を知り、自分の身を売ったお金で弓削連元宝児を報告のため帰国させる。博麻は30年後 学問僧と筑紫に帰ることができた。それを知った持統天皇は国を思う心を喜ばれ褒賞を与える。八女にそんな偉い人がいた。

〈謡曲「綾の鼓」〉
都だったそれらしいお話しとして、木の丸御殿に仕えるお庭掃きの老人が、桂の池の御遊びする女官の姿に恋するも実らず池に身を投げた。その後、池の底からの老人の鼓の音にその女官が狂乱したという物語も生まれている。

〈それまでにこの地域で起こったこと〉
朝倉には弥生時代の平塚川添遺跡。筑後平野につながる佐賀平野には吉野ヶ里遺跡など邪馬台国説があるほどの先進的地域であった。朝倉の筑後川上流には「杷木神社」があり、527年磐井の乱に、朝廷からの麁鹿火大連(あらかいのおおむらじ)が戦勝祈願をしたなど中央とのつながりのあったエリア。

〈地理的な位置〉
朝鮮半島からの来襲を恐れているので、海に近い福岡周辺はNG。これまでの都の計画と同じく内陸に。筑後川流域の朝倉の地理は、西に筑後川を下れば有明海。北は筑紫野の丘陵を越えれば玄海灘。東は周防灘の大分県宇佐八幡宮と地の利がある。一方で、筑後川上流の日田では地形的に逃げ場が無くなると書かれているものもある。

〈宮廷の位置〉
朝倉橘広庭宮の所在は未だ分かっていないが、地元の伝承では朝倉市須川地区「天使の森」付近といわれる一方で、杷木町志波の台地に大規模な建物跡が発見され、可能性のエリアが広がっているが、なぜか意欲的な調査は行われていない。

こののち日本史は特別な争いの事件と、今の日本を形作る大変な成果が生まれる時代に入ります。そこには常に先進国だった朝鮮半島と中国のへ意識が大きなエネルギーになっていて、この当時の国際的日本を感じることができそうです。

過去の記事
吉原住宅 代表プロフィール
吉原住宅有限会社
代表取締役

吉原勝己

1961年福岡市生まれ。1984年九州大学理学部卒業後、旭化成で医薬品の臨床研究を17年行う。その後吉原住宅に入社。
老朽ビルの再生が、資産価値向上と人のつながりを深める手段となることを確認する。